医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清
僕は既定路線を進むしかないと思い込んでいる学生や若い医師たちに、人生の選択肢の広さを、身をもって示したかったのです。

黒川清 Kiyoshi Kurokawa
政策研究大学院大学アカデミックフェロー
Health and Global Policy Institute 代表理事
IMPACT Foundation Japan 代表理事

黒川清は、いったい何者なのか。

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

2013年4月、東京大学入学式の祝辞を「Carpe Diem」(ラテン語で「今日をつかむ」)と締めくくり、昨年7月、国会に設置された東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(以下、国会事故調)の委員長として「事故は人災」と断言。どの調査機関もたどり着けなかった事実を明らかにした。常にインパクトあるメッセージを発信する。
黒川清の今の肩書きは、政策研究大学院大学アカデミックフェロー、Health and Global Policy Institute代表理事、IMPACT Foundation Japan代表理事。かつては、東京大学医学部第一内科教授、東海大学医学部長、日本学術会議会長、そして内閣特別顧問であったこともある。このような立場で内閣官房入りした科学者は彼が初めてだそうだ。先に触れたが2012年、国会事故調の委員長に抜擢されたのは記憶に新しい。彼は、長期間アメリカにいてUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)の教授だった。しかし、実力からすれば、世の中では格下と思われかねない東京大学医学部助教授のポストを甘んじて受け入れ帰国。
以降、前述したように実にさまざまな肩書きを持ち、医師と称するのがはばかれるほど、その枠をはるかに超えて活動をしている。 話し出したら止まらない。次から次へと言葉があふれる。あふれる言葉から、「考えよ」、「問いかけよ」との彼の心の声が聞こえる。全身全霊、人生を賭けて日本人の心と体を揺さぶろうと止まない黒川清とは、いったい何者なのか。

大学人事に対する反乱

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

1996年、黒川は東京大学(以下、東大)医学部第一内科教授の任期を1年余り残して東海大学医学部長に。発表されたのは同年3月、7月1日には新たな地への赴任という早業。医療界は騒然となった。そもそも東大から東海大学への異動が珍しく、また彼の経歴からすれば、ほかの選択肢もあったはずだ。

「僕がアメリカから帰ってきて何がいちばん気になったか。それは、学生はすばらしく優秀なのに、教える側の問題で、視野がきわめて狭くなっていること。日本の医学教育のレベルの低さです。30歳ぐらいになると活気がなくなり、このまま医局に残るか、関連病院勤務、開業でもしようかと二者、あるいは三者択一の狭い思考に陥ってしまう。

海外で活躍する、修行を積む、国内のへき地で医療貢献するなど、ほかにもたくさん選択肢がある。しかし、日本の大学教育の現場では、過去の人たちが、過去に教わったスタイルを学生に押しつけている。教育者は、学生や若い医師の一人ひとりに自分が何をしたいのか考えさせ、さまざまな選択肢があることを知らせるべき。そして、知らせるだけでなく、できれば自らやって見せれば、なお説得力があるでしょう。僕は既定路線を進むしかないと思い込んでいる学生や若い医師たちに、人生の選択肢の広さを、身をもって示したかったのです」

3ヵ月での異動は、周囲の妙な動きを封印した。

「東大の教授をしていると、定年間際に『どこそこの公的病院の院長就任はいかがですか?』などの打診がくる。案の定、そういう話が水面下でやってきてすごく困った。断ると、噂になり、厚生省や文部省(いずれも当時)関係者が、『あの人はもっと“格上”の病院をねらっているに違いない』、『どこかあてがあるのか?』。あっという間にいろいろな人のいろいろな憶測が、飛び交い始めちゃう。」

進みたい道に賭ける気概

医師インタビュー企画 Vol.1 黒川 清

「もともと僕は病院長になるつもりなど、まったくなかった。病院長は、ほかに多くの適任者がいる。僕でないとできない仕事ではないでしょう。

でも、不安でなかったとは言いません。断った時点で、行き先が決まっていたわけではありませんから。こっちがだめでも、あっちがある状態ではなく、こっちを断ったらほかの可能性も潰す事態につながりかねません。ただ、迷ったときには、可能性があるかないかは別として、進みたい道が拓けるほうに賭ける気概の有無は、人生のターニングポイントで大きな影響力を発揮します。決して楽観主義ではないですが、強い気概があれば、チャンスが訪れる確率は高くなる。自らの人生を振り返って得た経験則に身をゆだねようと思いました。

そのときに、とても重要なのが自分のボトムラインをどこに引くかです。どうしても譲れない、いかにしても守らねばならないボトムラインを決めておかないと、見栄や外聞に惑わされ、自らの人生を自ら決められないみっともない人生を送るはめになる」

黒川にはやりたいことがあった。帰国していちばん気になった医学教育の改革である。教育の改革をせずして、自分の帰国した意味はない。これがそのときの黒川のボトムラインだった。

ちらほらと彼の周辺がざわめき始めた矢先、東海大学から医学部長として迎えたいと青天の霹靂のような話が持ち上がる。運も実力のうち。黒川は見事に気概で運を引き寄せた。そして目に見えない「しばり」の力が働く前に黒川は即断し、辞任と就任を誰もが驚いている間にすべてを終了させる。

当時の東海大学病院は、経営状態が悪く、病院の経営改革が迫られていた。かたや東海大学は、他大学との差別化を図るべく、学士編入学枠を設けたり、ファカルティ・ディベロップメントを目的にした合宿を行うなど新しい大学・医学教育を取り入れようとしていた。つまり、医学部を変えようとしていたのである。

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