医師インタビュー企画 Vol.21 名知仁子
同じ情報を得たからと言って、みんなが同じようなことをしなくてもいいと思うんです。その代わり、常にアンテナを立てておいて自分が好きなところをキャッチして、芽吹くタイミングを見つける。どの科目でどう働くか、今の時代なら本当に色々な選択があっていい。極論を言えば、医師を辞めることだってひとつの選択肢だと思います。自分が納得してさえいれば、すべて正解なんだと思っています。

名知仁子 Satoko Nachi
特定非営利活動法人ミャンマーファミリー・クリニックと菜園の会 代表

ミャンマーの医療に全力を捧げる医師・名知仁子

巡回診療、保健衛生指導、家庭菜園指導の3つの活動を通して、ミャンマー人の健康を支える名知仁子。大学病院、国境なき医師団といった最前線の経験を経て行き着いたのは、日常生活からの自立支援だった。とはいえ、名知ははじめから崇高な目標を持っていたわけではない。人生プランに国際医療が加わったのは30歳過ぎ、海外の地に降り立ったのは39歳のときだった。途中、乳がんなどを患いながらも医師として走り続ける理由とは――。

【目次】
・39歳、遅咲きのキャリアで国際医療の地へ 「こんなに何もできないなんて」
“眼科医になりたい”から始まった医師人生
現場を知っているからこそ、あきらめない
人生はカスミソウ。可能性はいつか芽吹く

39歳、遅咲きのキャリアで国際医療の地へ 「こんなに何もできないなんて」

自分の年齢がわからない、数字が読めない。正式に医学を学んだことのない現地の人や難民の人たちに医療を教えながら、自身も聴診器一本で患者を診ていく――。

39歳で初挑戦した国際医療は、国境なき医師団のミッション。軍事政権のミャンマーからタイに逃げてきたカレン族の難民キャンプで、現地にいる医療従事者(現地ではメドックと呼ばれる育て上げられた人々)をマネジメントするという内容だった。当時は、40歳までにファーストミッションが得られなければその後のミッション付与はないと言われていたため、名知は遅咲きかつ滑り込みのスタートでもあった。そんな中、「人はいかなるときでも可能性があること、そして聴診器一本で患者と向き合う難しさに気付いた」と、自分の原体験を振り返る。

メドックの人たちは、戸籍もなければ、小・中学校にも通えなかった人たち。自分の年齢も数字の意味もわからない中、国境なき医師団メンバーの指導によって、マラリアや結核の対応、顕微鏡検査などができるように目指していく。名知も、彼らが聴診器を使い、的確に脈拍を取れるようになる瞬間を見ていた。

「彼らから、人間はいかなるときでも可能性があるのだと感じました。何歳でも、やろうと思えば何でもできるのだと。『できない』と思っているのは単純にチャンスを与えられていないか、心の奥底にいる自分が望んでいないだけなのだと思う」

とはいえ、国際医療の現場は、何もないことが過酷さを増長する。

「覚悟はしていたものの、現場には聴診器一本しかない。CTはもちろん、血液検査、尿検査もない。派遣先の難民キャンプはタイとミャンマーの国境沿いにありましたが、両国間の自由な出入りは禁止されていました。そのため、大きな病院への緊急搬送が必要なときはタイ政府に許可を得なければならず、お金と時間の両方で諦める人も多かった。医師として10年以上働いていましたが、はじめて“患者と向き合う”意味を考え続けたと思います。

ミッション中は日本へ電話できる機会が1回しかなかったのですが、そのとき、日本人ではじめて国境なき医師団に参画した貫戸朋子先生に電話したことをよく覚えています。『何もできない。帰りたい。こんなに何もできないなんて想像していなかった。現地にいるメドックから学ばせてもらっている』と。貫戸先生から返ってきたのは『あなたは自分が学ぶために行ったのではなく、教えるために行っている。教えなさい』という言葉。国際医療の厳しさを突きつけられる、わたしの原体験になりました」

ミャンマー人難民キャンプ内にて。小学校にも通えなかった現地の検査技師たちと。

ページ: 1 2 3 4

サブコンテンツ