紅白にも出場、医師と歌手―医師と2足のわらじvol.6(前編)

紅白歌合戦に出演した医師がいるのをご存じでしょうか。今回取材したのは、医師で歌手のアン・サリーさん。平日は内科医として都内の病院に勤務しながら、オリジナルアルバムを多数発表し、日本全国、アジア地域でのライブ活動を続けていらっしゃいます。医師、歌手、母親と、多彩な役割をこなす毎日に思い悩んだときもあったそうですが、今ではそれぞれの役割を楽しみながら、日々を過ごしているそうです。今回はそんな、アン・サリーさんのこれまでの歩みを伺い、医師・歌手としての日常にせまりました。

「医学の道か、音楽の道か」迷った末に…


――まず、医師を志したきっかけについて教えてください。

父親が医師だったこともあって、小さいころから私にとって、医師という職業はとても身近な存在だったんです。医師になることを強く勧めるような家庭ではありませんでしたが、父は自分が苦労して立ち上げたクリニックを子どもに見せたかったのか、診療の合間や休診日に、私たち兄弟にクリニックを解放していて。幼少時代は「お医者さんごっこ」と称して兄弟4人で注射や聴診のまねごとをしたりして過ごしていました。

そんな幼少期、クリニックで医師として働く父の姿を見るのも日常的な出来事でした。家にいる時とはまた違うカッコよさがあるな、と幼いながらにも思ったことを覚えています。小児科医だった医師は、家に帰ってからも熱心に勉強に励むような人で、幼いころの私は、父が読んでいる医学書にも興味津々。怖いもの見たさもあって、医学書で人体の内側の構造を見ては、自然と医学への興味が募っていきました。

――そういう環境だと、「医師になりたい」という思いも自然と湧き上がってきそうですね。

そうですね。でも、小学校の文集などで「将来の夢」を問われた時はいつも「医師か、音楽家か」と悩んでいました。幼少期からピアノを習わせてもらい、高校時代には周囲でバンドブームが巻き起こって歌にも親しむようになった私にとっては、医師と同じくらい音楽家という職業も魅力的だったんです。 医師も音楽家も、幼少期には、「ウルトラマンになりたい」くらいに漠然とした「夢の職業」だったのですが、やはり真剣に悩んだのは高校生の時。現実的に、進路の選択を迫られた場面でした。

――悩んだ末に、医学部に進むことを決めた理由は何だったのでしょうか。

あるとき父に、「音楽家になったら医者はできないけれど、医者になって音楽をすることはできる」と言われたんです。実は父自身も、美術の道か医学の道かで迷った経歴の持ち主だったのですが、「医師と音楽家、両方の選択肢を潰さないためにも、医学部を進んでみたら?」とアドバイスをくれて。すごく説得力のある意見だと思ったので、まずは医学部で学ぼうと思って東京女子医科大学へ進みました。

――どんな医学部生活を送りましたか。

医学部での勉強は本当に忙しかったですが、一方で早稲田大学との合同でのバンドサークルに入ったり、個人的にも複数のバンドを掛け持ちしたりして、音楽には親しみ続けました。特にバンドサークルにはいろんなジャンルのマニアがいて、自分がそれまで聞いたこともないような音楽に触れる機会に恵まれて、面白かったですね。音楽の嗜好性は、当時形成されたかなと思っていて、私にとっては大きな出来事でした。

――ちなみに医学生時代は、どんなジャンルの音楽に親しまれていたのでしょうか。

サークルで多く扱ったのは、ブラックミュージックと呼ばれる、黒人の方々の音楽でした。ブラックミュージックは、抑圧された人々がその気持ちを昇華させるために作った歌という側面が強いのですが、そうした音楽の在り方に、当時の私はすごく惹かれたんです。大学時代はとにかく、「自分にかけたところがあるんじゃないか」という不安が大きかった。社会にも出ていないし、経験も浅いから、今思えば戸惑うのが普通なのに、いつも思い悩んでばかりの学生でしたから。

学生時代の私は、試験期間中は勉強に集中し、試験から解放されたらバンド活動に集中する――そんな毎日を繰り返していました。でも当時は、本気で音楽の道でプロになるだなんて、考えもしませんでした。

医師になってからも歌に癒され続けた


――卒後は、医師としてどのようにキャリアを歩まれたのでしょうか。

母校に入局し、内科医として研修をスタートさせました。医学部卒業時点では、「内科系に進もう」くらいの考えでしたが、次第に強く惹かれていったサブスペシャリティが、循環器内科。やってきた患者さんが治療を受けてから劇的に改善される姿を目の当たりにして、医療とはこんなにもドラマチックなのかと驚きましたし、何より、周囲の先生方が本当に尊敬できる方々ばかりだったんです。

――ちなみに医師になられてからも、バンド活動は続けていらっしゃったのでしょうか。

はい。さすがに臨床で忙しかったので時間を作るのに腐心しましたが、勤務を終えてから河川敷で歌うのが、私にとっては何よりの気分転換でした。

臨床現場に出て、病院では病気と闘う患者さんやそのご家族と毎日を共にして、ときには人の死にも立ち会って――。時に鬼気迫る様子の中で、本当にいろいろなことを感じました。答えの出ないような問いも多くって、自分では気持ちを整理できなくなることもあった。そんな時、やっぱり私は、歌いたくなってしまうんです。医師としての生活が少し落ち着き始めたころには、ライブ活動も少しずつスタートさせていました。医学だけでも、音楽だけでもない。両方に関わることで、自分の平衡が保てるようにも感じていました。

――当時は生活の一部として音楽を楽しむような状況だったのだと思うのですが、そこからCDをリリースするなど、デビューに至ったきっかけは何だったのでしょうか。

勤務医として働きながら、年に数回ほどライブを重ねているうち、ある音楽プロデューサーの方から「アルバムを出してみないか」と誘われたんです。2001年、記念のような気持でありがたくリリースしたのが、ファーストアルバムの“Voyage”でした。

ただ、当時の私は医学研究への興味も大きく、恩師の勧めもあってアメリカのニューオーリンズへの留学を控えていたタイミングでもありました。ニューオーリンズは、高血圧の権威として有名な先生の所属する研究施設がある地域。同時に、ジャズが生まれた街としても知られています。これは私に最適だと、ファーストアルバムを出した翌年、研究留学をしました。

ジャズの本場で得た気づき

ニューオーリンズの街の風景

――ニューオーリンズでは、どんな毎日を送りましたか。

月曜日から金曜日は9時から17時まで研究をし、参加できそうなライブを見つけては、アフターファイブを利用して足を運ぶような毎日でした。現地の方々は本当にフランクで、私が日本で歌手活動をしていることを知ると、ステージに上がるよううながされることもあるほど。ジャズの本場でのライブに、初めは緊張しましたが、聴衆の方々も、私の歌を真摯に聞いてくださり、とても楽しかったですし、歌手としても勉強になりました。


――やはり、本場で学ぶことは多かったですか。

それはもう。ジャズの本場で歌手として学んだのは、「言葉の大切さ」です。日本で歌っていたころは正直なところ、英語の歌詞は外国語だったので、そこまで気持ちを込められていなかった。しかし現地の方々は英語のネイティブスピーカーたちですから、「歌詞にどんな解釈をし、どんな気持ちを込めて歌っているか」をすごく重視してくるんです。

歌に対する解釈をうまく表現でき、それが共感を集められれば「いいぞいいぞ」という声援が聞こえてくる方、「イマイチだ」と判断されれば、シビアな反応を示されたり――。現地のバンドマンの方々は本当にスキルが高くって、ボーカルがテンポやキーを指定すれば、その通り演奏してくれるので、ボーカルの力量がダイレクトに聴衆に見定められてしまうという恐怖もありました。しかし次第に私の歌を気に入ってくれた方が増え始め、その後もライブに向かうたびに、ステージに上がらせてもらえるようになったんです。言葉に心を込めることの大切さを教えてくれた当時の経験は、現在の歌手活動にも大きな影響を及ぼしていると思います。

インタビュー後編では、医師・歌手・母として過ごす、アン・サリーさんの帰国後の生活についてうかがいます。


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