退局を段取りよく、円満に進めるために必要なこと―わたしの医局論(2)

小鷹昌明(おだか・まさあき)

前稿でも触れたように、わたしは、「これ以上、大学にいても成長はない」と判断して医局を辞めました。もちろん、そのような結論を導き出すまで、さまざまな葛藤があったことも事実です。今回は、わたし自身の経験を織り交ぜながら、「医局退局」について詳しく述べていきたいと思います。

まずは自己固め、次にタイミングの見極めを

退局のための初期動作は、「なぜ、自分は医局を辞めるのか」を徹底的に内省し、“自身の自己固め”をすること。医局を辞めてまでも実現したい自分の夢や希望が、本当にその形でしか実現し得ないものなのかを考えぬく必要があります。ただ、決断に関しては、もしかすると頭よりは心、もっと言うなら魂に従うことがあるかもしれません。抽象的な言い方ではありますが、願望や欲望は大脳で考えるにしても、最終的には、魂の声が聞こえるかというところで判断します。わたしは前述のように、大学にいても成長はないと考える一方で、それほど問題がないなら現状維持でいいのではないかとも思っていました。重要なのは真摯な思索、そして、心の奥底から納得できているか否かに尽きます。

“自己固め”と並行して練り上げる作業は、“タイミングの見極め”です。そのためには、医局の変遷を理解しておかなければなりません。医局は、主任教授の交代を契機に、新陳代謝を繰り返します。その時々の流行りと廃りとのなかで、発展と衰退とを繰り返し、常に流動的な変化を続けています。

医局の勢力が最もボトム化する時期は、主任教授の交代時期です。教授の退官時期が近づくと――たとえば残り2年を切ったあたりから、次期教授候補の噂をはじめ、医局はざわめき立ちます。現教授の退官前の記念学会の幹事を任されたり、業績集を作成したりするなど、引き継ぎのための雑務が増えます。今後の方針が定まらないうちに入局する新人は少なく、ここは、現医局員の正念場とも言えるでしょう。現教授に仕えている医局員たちも身の振り方を考えるようになりますが、この時期に辞めることは得策ではありません。慌てず、新教授が誕生した後の数年間を観察することです。就任直後の教授は意欲があり、理想とする医局の姿の青写真を描いています。その結果、ガッツある教授のもとに人が集まります。そうした雰囲気に流されて、「この医局ならやる気を引き出してくれるのではないか」という幻想を抱いて入局する医師や、「これだけ人気があるのだから働きやすいだろう」という期待を胸に入局する女医も、なかにはいます。積極果敢な教授と、(たとえばですが)それに惹かれた野心的で個性的な中堅医師、鼻持ちならぬも体力には自信のある若手医師、流れに感化された真面目だが少し軟弱な研修医…というような、さまざまな人種が入り混じり、見事なまでのグラデーションに彩られた時代に、医局は最も栄耀栄華を極めます。

教授の退官までに相当の年月があり、それまで待てないという方もいると思いますが、基本的にいつ辞めればよいかというと、医局の最盛期です。「そんな良い時期に」と思うかもしれませんが、雰囲気が最も良い時期の退局は引き留めも少なく、こちら側の本気度が伝わりやすい。何より、医局への迷惑が最小限で済むのです。

円満退局をかなえるために

辞めるための意志決定と時期については、コンセンサスが得られたことと思います。ここまで至れば、“医局撤退”は8割がた完遂したようなもの。後は実行あるのみですが、実践のために必要なコツについて補足を加えます。

辞める理由については、実際のところ「両親の体調不良など、家庭の問題」、「開業準備」、わたしのように「大学での成長が望めなくなった」というような場合が多いと思います。いずれの理由にせよ、周囲の同情と共感を集める工夫をしておくことが、円満退局の鍵となります。一方、仮にそうであったとしても、「仕事がきついから辞める」、「魅力ある違う病院に勤務したい」、「子どもの教育のために転居する」、「結婚したから休職する」、「離島で1年くらい暮らしたい」というような“本音”を悟られるような言動は避けるべきです。同期がいればなおさらのこと、逃げの態度や個人のわがままは快く思われません。

重要なことは、現職場を否定的でも肯定的でもなく、ニュートラルな立場で捉えて、態度に示すこと。仕事の手を抜いたり、周囲に不満を漏らしたりする行為は、厳に慎むべきです。残される者の共感を生むことには決してつながらないし、評価を落として辞めるのでは後難を残します。これまで以上の仕事をこなし、惜しまれつつ辞めるのです。つまり交渉時に成すべき行動は、人事の統括者に対して、「(正当とされる部分においての)熱意を真摯に示す」ことと、「(忠誠をないがしろにしないように)作法を遵守する」ことです。この決断をせざるを得なかった事実を丁寧な態度で示し、望みを承諾しなかった場合には、自分の人生は大きく常軌を逸してしまうであろうことを理解してもらうのです。冒頭で示した“魂の納得”であることに帰結していれば、事を起こすのはそう難しいことではありませんし、一時の忠義立てくらいは何てことありません。
わたしの場合、准教授までにしていただいた感謝を丁寧に告げ、被災地支援をしながら、もう一度医師としての自分を奮い立たせたいという事実を伝え、最後の年には十数本の論文をまとめ上げ、医局の勢力が最も拡大しつつある時期を見計らって、退局の意向を伝えました(幸か不幸か、それが震災の翌年だったということにしておいてください)。

一度きりの医師人生をどう歩むのか

本稿の最後に、“医師の現実”をやや辛辣な口調で伝えておきます。

「人のために働きたい」という情熱に溢れた高校生が医学の門を叩き、決して安くはない授業料を負担してもらい、さまざまな難関を突破して医師免許証を手に入れたとします。2年間の研修を受けた後、どこかの診療科に入局します。出身大学か自分の関心領域に近い医局を選ぶことが多いですが、なかには全く知らないブランド病院に飛び込む者もいます。入局して待っているのは、年功序列の“医局人事”。まず、大学病院での後期研修が1~2年あり、続いて、一般的には関連病院へと出向し、2~3年ずつ病院と大学とを往復します。
医師になって理解することは、やり甲斐もさることながら、世の中の“不条理さ”です。病に見舞われた患者に対して、耳慣れない病名を告げ、これからどういう事態が起こるか想像できないなかで診療を継続します。それに対して、あまりに無力な医療の限界を痛感します。「人間として許されることをしているのか」という自問は、普通の暮らしのなかではあまりないことでしょう。医師は「自分は正しい」と感じるよりも、「自分は間違っていないか」という検証のために、多くの時間を割いて生活することになります。毎日毎日何十人もの病人や怪我人と付き合い、月に2~3度くらいは自分の受け持ち患者が死ぬ世界において、「凍てつくツンドラの大地に、ひまわりの種を撒き続けるような不毛を繰り返すだけ」と言われても仕方がありません。

30代ともなれば、ライフイベントが増え、自分自身の将来を考える機会が頻繁に訪れます。勉強と試験とを繰り返し、医師人生を駆け抜け、落ち着いてきた頃に、「どんなに頑張ってみたところで、皆が教授や大病院の院長になれるわけではない。多くの医師は親の後を継いで開業医になるか、一般市中病院で勤務医として働くか、そのどちらかである」ということに気付くのです。大きなリスクを背負って、いつ破滅してしまうかわからない状態で、自分の可能性の限界まで働いていくのか。あるいは、自分の手が届く範囲の患者に対してのみ誠実な医療を心がけ、ひとりの人間として愉しい人生を求めていくのか――。現実的には、この2つの選択の狭間で、教授や大病院の院長になれない多くの医師の心は揺れ動くのです。
医局が嫌になる原因は、やりたいことができずに働かされているという憤まん感、いくら仕事をしても浮かばれないという虚無感でしょう。ここを上手く切り抜けないことには、将来の医局退局の意向を払拭できません。医師人生は一度きり。いまの自分の適性を冷静に見つめ直し、ときに環境を変えていくことを恐れてはいけません。医療者には、ずっとずっとやり甲斐を保ちながら、愉しく仕事をしてもらいたいものです。

【著者プロフィール】
小鷹昌明(おだか・まさあき)
1967年埼玉県に生まれ、1993年獨協医科大学を卒業。同大学病院神経内科に勤務後18年目に東日本大震災発生。大学を辞すと決め、震災1年後の2012年4月に南相馬市立総合病院に赴任。「被災地医師は何を考え、どうするべきか!」との想いに突き動かされて、神経難病患者の診療の傍ら社会活動を展開している。福島県浜通りの伝統行事『相馬野馬追』に5年間出陣。著書に、『医者になってどうする!』、『原発に一番近い病院』(中外医学社)、『ドクター小鷹、どうして南相馬市に行ったんですか?』(香山リカとの共著)(七ツ森書館)、『被災地で生き方を変えた医者の話』(あさ出版パートナーズ)などがある。


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