タイが医療大国になれた理由―海外の医師はこう考える vol.4

森 臨太郎(もり・りんたろう)

日本では、医療ツーリズムの本場としても知られている、タイ王国。私的病院を中心に、高度な医療を提供することで、他国からも患者がやってくる東南アジアの医療大国だ。
近年にはすべての住民に公的医療保障を提供する形が整った。経済規模や背景にある貧富の差を勘案すると、保健指標としても、優秀な国である。今回はそんなタイの医療事情について、考察を深めたい。

医療大国発展に寄与した、「プリンス・マヒドン」

タイ王国は、保健医療の大国である。その貢献者となったのが、タイ医療の父「プリンス・マヒドン」だ。

タイの現国王ラーマ10世の祖父にあたる「プリンス・マヒドン」。本名は「マヒタラーティベートアドゥンラヤデートウィクロム=プラボーロムラーチャチャノック太上王」で、病人の存在に心を痛め、ハーバード大学で医学を学び、のちに同大学で公衆衛生の博士を取得した。小児科医を志しつつも若くして亡くなった。タイの医療の発展に大きく寄与され、タイで一番の医学部とされる国立のマヒドン大学も「プリンス・マヒドン」の名前が由来である。

「プリンス・マヒドン」の貢献もあって、タイにおいては公的な保健医療に対する関心が高い。世界保健機関などが、途上国では行うべきとされるような施策は率先して行いつつ、地域でのプライマリーケアや公衆衛生活動などが国を挙げて熱心に取り組まれている。

タイの小児科病棟の様子=筆者撮影=

なお、タイでは私的医療(日本でいう自由診療)は約20%を占め、公的医療が約80%を占めている。公的病院に勤める医師も、午前中や昼過ぎまで病院でやるべき仕事を終わらせ、その後私的診療をしていることも多い。ただ、このこと自体は、多くの途上国では普通のことだし、先進国でも行われている。場合によれば、公的病院に来た患者を、自分のクリニックに誘導することで、給料の足しにすることもよく行われる。それでも、タイの医療全体が比較的健全に回っている背景には、国全体の保健医療にかかる、見えない「統制」がある。

一般的に、私的医療の割合が25%を超えるようになると、優秀な医療従事者や軽症患者を吸い上げることになり、また制度の格差も大きくなり不満足感も冗長するため、制度崩壊の危険がある。貧富の差も大きく、自由市場を享受している社会背景にあるタイにおいて、公的医療の占める割合を80%で曲がりなりにも維持し、特に地方におけるプライマリーの医療施設の質を保ち、制度を維持している背景には、公衆衛生のマインドを持った医師たちの活躍があるのである。

公衆衛生の”見えないチカラ”

タイ現地の医療スタッフたちと=中央が著者=

この「公衆衛生マインド」は通常、目に見えないのでわかりにくい。タイ政府には「公衆衛生省」が設置されており、医療にかかわる部署も、この公衆衛生省にある(ちなみに大学は教育省の管轄である)。多くの国では保健省(Ministry of Health)と呼ぶところを、公衆衛生省(Ministry of Public Health)と呼んでいるところにタイ人の熱意があるというのは考えすぎだろうか。公衆衛生省の敷地は広大で、霞が関が一つはいるぐらいである。日本ではなかなか導入が進まない、医療技術評価や医療データの分析なども熱心である。

この公衆衛生マインドの情熱が最もうかがえるのは、地域の保健センターである。保健センターでは、風邪のような一般的な疾病への対応に加え、母子保健の健診やワクチンなどが提供される。民生委員のような形で、地域の医療ボランティアが形成されており、こういった人々も地域で熱心に、健康活動に取り組んでいる。踊りやたばこ対策など、生活習慣病対策も熱心である。

タイは、バンコク周辺、東北部、山間部、南部などで、それぞれ地域性がある。いずれの地域も訪れ、それぞれの保健センターにも訪問したが、同じような雰囲気であった。
山間部では、ラオスやミャンマーと国境を接しており、少数民族の問題や、HIVの問題があったり、ブラックマーケットが存在していたりしている。一方で、南部はマレーシアとの国境がある。タイは有名な仏教国であるが、南部の一部の県では、イスラム教徒が大半を占める。先日バイクを使ったテロ爆破事件もあった。タイの中では唯一、外務省から渡航中止勧告が出ている。生活習慣の違いからか、保健指標もタイの中では良くない。

それでも、実際に訪れてみると、他の同じような経済状況の途上国に比べても、現場の医療従事者はしっかりとしており、保健センターで担当地域の統計を取り、いつでも発表できる形になるぐらい、地域の健康状態が把握できている。

「見えないチカラ」に力を入れる、タイから学ぶべきこと

一般的な医療現場ではない場所でこそ、公衆衛生はそのチカラを発揮する。タイの場合、地域での保健センターや省庁などが主導となって、公衆衛生がうまく機能していることが、国全体の保健医療の基盤を支えている。

日本においても、急激な少子高齢化や医療技術の進歩など医療を取り巻く環境が大きく変化する中で保健医療の重要性が声高に叫ばれている。「プリンス・マヒドン」時代から受け継がれてきた、タイ国の精神から学べることは多い。

【著者プロフィール】
森臨太郎(もり・りんたろう)
国立成育医療研究センター政策科学研究部長/コクランジャパン代表
1995年岡山大学医学部卒業(同大学院博士課程修了)。淀川キリスト教病院小児科・新生児科などで勤務。2000年に渡豪し、アデレード母子病院などで新生児科診療に従事。2003年に渡英し、ロンドン大学熱帯医学大学院で疫学・公衆衛生学を修めた後、英国立母子保健共同研究所に勤務。出産ケア、小児の尿路感染症の英国国立医療技術評価機構(NICE)診療ガイドラインの作成にも携わった。帰国後、東京大学大学院国際保健政策学准教授などを経て、2012年より現職。2014年、コクランジャパン代表に就任。


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