考え方は「臨床と変わらない」
保健・医療・福祉の各分野に対し、医師の立場から医学的評価・判断を行う公衆衛生医師。一見、臨床とはかけ離れた世界のようにも見えますが、約10年の臨床経験を経てこの道に進んだ吉田道彦医師(医師26年目)は「考え方のプロセスは、実臨床と変わらない」と強調します。
「相手が個人か集団かという違いはありますが、状況を分析して問題を発見し、対応策を打っていくプロセスは、問診・検査・治療の流れと同様です。臨床をやってきた方にはそんなに違和感がないのではないでしょうか」(吉田道彦医師)
東京都福祉保健局 健康安全部 感染症危機管理担当部長
もともと、血液がんを専門としていた吉田医師。数々の重症患者と接するうちに、「来院前からアプローチしておけばより多くの人を救えるかもしれない」と、臨床医からの転向を一大決心したそうです。東京都に入職してから約8年、一大プロジェクトとして視野に入ってきたのが東京2020大会への対応。世界各国から観光客が訪れるこの機会を医学的にサポートすべく、準備が始まろうとしているそうです。
「都全体で見込まれる東京2020大会の観光客は、1日約90万人。何の対策もなしに挑めば、大きな混乱も予想されます。競技会場と多数のホテルがある港区でも、感染症対策や食中毒対策をはじめ、検討すべきことは山積です。笑顔で終われる東京2020大会にすべく、過去の開催事例の研究や、民間との協力を徐々に進めています」(吉田道彦医師)
オリンピックに向けた多職種連携
東京2020大会まで3年を切った今、感染症対策の最前線を担うのが安岡圭子医師(医師20年目)です。各保健所からの相談対応や東京都感染症マニュアルの改訂といった通常業務と並行して、準備を進めています。
「東京2020大会の感染症対策には2つの軸があります。ひとつは輸入感染症発生への対策、ふたつ目が集団への感染拡大の防止。今は、歴代大会の情報を基に、感染症サーベイランス(発生動向)や検査体制の強化等をしながら、両軸への対策を立てているところです。単に感染症対策の手引きを配るだけでなく、競技会場に関わる医療機関や宿泊施設等、オリンピックに関わる多くの機関との連携体制をつくっていきたいと考えています。」
東京都福祉保健局 健康安全部 感染症対策課
これまで臨床医と研究職を長く経験された安岡医師。医師としての知見を生かせるだけでなく東京都ならではのスケールの大きなプロジェクトに携われるのが、この仕事の醍醐味ともいいます。
「医師に多職種連携は欠かせませんが、それは行政の場でも同じ。特に、東京2020大会では、国や組織委員会、民間事業者といった多様なステークホルダーと協力していきます。関わる人の幅広さが魅力的な一方、医学知識をわかりやすく伝える難しさはありますね。とはいえ、東京都は公衆衛生医師が多く、周りの医師と相談しながら進められるのが心強いです。今取り組んでいることが感染症対策のオリンピック・レガシーになるように、引き続き力を入れていきます。」(安岡圭子医師)
ガイドラインはない。住民の健康を守る方法をゼロから考える
世界有数の大都市として知られる東京には、本庁のほか、都内31の保健所に総勢約130人もの公衆衛生医師が在籍。東京都への入職後、原則として2-3年ごとに配属地・担当分野の異動を重ねていきます。
荒川区など3区で健康づくりなどに携わってきた中坪直樹医師(医師15年目)は、東京都の地域性の豊かさと、ゼロから施策を考えていく業務内容が仕事のやりがいにもつながっていると指摘します。
「東京都は、23区内だけでも下町から高層タワーエリアまで多彩。区外には地方都市型の医療圏や、伊豆・小笠原諸島といった島しょ部もありますし、本庁では東京都全体の健康づくりに寄与もできます。目的は同じ健康増進でも、地域ごとにさまざまな経験を積めるのが、東京都の楽しさですね」(中坪直樹医師)
東京都福祉保健局 保健政策部 健康推進課長
中坪医師が「最も印象的だった取り組み」と語るのは、荒川区での事業「メタボチャレンジャー」。30-40代男性にウォーキングや食生活指導を受けてもらうべく、保健師や栄養士、事務職などの他職種と連携しながら施策を進めたそうです。
30-40代の男性は、行政としてもアプローチしづらい層ですが、この事業では、小学生に健康の大切さを伝えて、家でお父さんと話し合ってもらうようにしたんです。すると健康増進プログラムの男性参加者が増え、今では参加をお断りしないといけないほどの人気プログラムになっています」(中坪直樹医師)
「専門分野にとらわれず、視野を広げて都民の健康安全を」
臨床とは異なるアプローチで地域に切りこむ公衆衛生医師ですが、一人ひとりの経歴はさまざま。もともと臨床医として活躍されていた方、公衆衛生に携わっていた方、初期研修後すぐに入職した方など、専門分野も多様です。
鈴木祐子医師(医師18年目)は、元々は大学医局の精神科医。現在は、合計16人の保健師と事務職をまとめながら東京都全体の母子保健を担当し、妊娠期から出産後まで切れ目なく支援する事業を推進しています。本事業では、課長職として年間12億円の予算編成・議会対応にも携わり、支援に必要な専門職の育成や施設改修などを企画。充実した日々を過ごしているそうです。
東京都福祉保健局 少子社会対策部 事業推進担当課長
「行政では部署異動もあるため、必ずしも自身の専門分野を担当できるとは限りませんが、その分視野を広げて、都民の健康や安全のためにできることを考えられる。その際、結果を導き出すために、臨床で培った論理的思考力や医学的知見が活きていると感じます」(鈴木祐子医師)
国外で公衆衛生活動に携わっていた医師から見ても、東京都の環境は魅力的に映るようです。村上邦仁子医師(医師16年目)は、入職までの約10年間、国際保健分野の専門家としてザンビアなどでHIVや結核のマネジメントに従事。2人の育児もあって海外勤務が難しくなってきたころ、目に留まったのが東京都での仕事だったそうです。
東京都福祉保健局 多摩府中保健所 保健対策課長
「海外での経験を積んでいるうちに、母国の問題にも目を向けるべきではないかと思うようになったんです。
入職して3年、現在は感染症対策に携わっていますが、実際に働いてみて、国際都市、かつ地域性の幅広い東京都ならではの難しさを感じます。今後は感染症分野に限らず、母子保健や精神保健など、幅広い領域に挑戦していきたいと考えています」(村上邦仁子医師)
世界有数の大都市が抱えるリスクから1370万人を守る
最後に、女性として初めて東京都福祉保健局技監に就任した笹井敬子医師にも、東京都で働く意義を伺いました。
「WHOが定義する健康、つまり身体的・精神的・社会的に健全であるためには、臨床医療だけでなく、公衆衛生行政を強化し、社会制度として健康を推進する必要があります。
特に東京は世界有数の国際都市であり、人口密度も高い。70年ぶりに流行したデング熱など新興・再興感染症や大災害に加え、日々の食品・医薬品・生活環境に対するリスクも抱え、公衆衛生医師は重要な役割を担っています。現在、約130人の公衆衛生医師で対応していますが、1370万人の都民の健康と安全を守るためには、さらに多くの医師の力が必要です」(笹井敬子医師)
普段はなかなか意識することのない公衆衛生医師ですが、今回の取材を通じて、臨床を経て発症予防への道に進む方、臨床では味わいがたい大きなスケールで仕事に携わりたい方、充実した仕事とQOLのワークライフバランスを求める方――。さまざまな働き方のニーズに応えられるのも公衆衛生医師という仕事の魅力の一つのように映りました。いずれかに該当する方は一度、説明を受けてみてはいかがでしょうか。
※掲載されている医師の所属は2017年8月時点のものです。