夜10時、当直用のPHSが鳴った。「先生!小児科病棟の看護師です。患児の鼻血が止まらないので処置してほしいんですが」。看護師にはすぐに耳鼻科の処置室に来てもらうよう指示を出す。当直室でくつろいでいたわたしは、処置室に電話して準備を依頼し、白衣を羽織る。「小児科の入院患児が鼻血ということは、白血病か。血小板が下がっているからかなり止まりにくいだろうな」。一抹の不安を抱えながら、わたしも処置室に向かう。
わたしが到着すると、すでに処置台の上に看護師に抱きかかえられたAちゃんが座っていた。年の頃は4歳くらいだろうか。原疾患を確認してすぐに処置に入る。
鼻血の処置は痛みを伴うもので、通常、同い年の子供なら大騒ぎだ。しかし、Aちゃんは決して大声を出さなかった。その代わり、処置を始めるとAちゃんは大きな目を見開きながら大粒の涙をいくつも流し始め、歯を食いしばって歯ぎしりをする。さらに、彼女の目はわたしを追い、視線を外さなかった。輸液ポンプの音と、痛みをこらえる声と、ギリギリという歯をこすり合わせる音だけが処置室に鳴り響いていた。わたしも処置をするのに必死で、「痛いよね」と声掛けなどをしている余裕もない。30分ほど格闘して、なんとか止血し、胸をなでおろした。ホッとしたのも束の間、わたしの心には「痛い思いをさせてしまった」という自責の念が押し寄せてきた。
2日後、別の患児を回診するため、小児科病棟に行った。わたしはふとAちゃんのことを思い出し、カルテが乗っているカートを見つけ、カルテを探す。クラークさんに「すみません。Aちゃんのカルテはどこにありますか?」と聞く。「あ、先生。こっちです」。差し出されたカルテを見て固まってしまった。わたしが処置した日の翌朝、Aちゃんは天国へと旅立っていたのだ。
その後、どういう行動を取ったのかは覚えていない。ただ、Aちゃんの大きな目がわたしの脳裏に焼き付いていた。そして、わたしの心の中では「死の直前、小さな子にあんな痛い思いをさせてしまった。でも、耳鼻科医として止血しないという選択肢はなかった。とはいえ、申し訳ないことをした」という後悔と自己正当化の戦い。そのせめぎ合いで立ち尽くすことしかできなかった。あの晩はわたし一人で対応したため、この出来事を誰にも言えず、心にしまい込んだのだった。